勉強なんて意味ないじゃんって言葉をもう少し考えてみる

子どもたちと勉強をしていてやる気というのは現時点で最も大きな問題だと感じているし、おそらく一生にわたって考え続ける課題だと思っている。

学びたいと思っている子どもたちに順序立てて理解の深さを確認しながら教えていくことは、教える側の能力に依るところが大きい。だから客観的・科学的に正しいとされている教え方をいかに自分が備えているかで、子どもたちの理解度は大きく上がる。

一方で、勉強に意義を見出していなくてやる気が出ていない子に対しては、「とりあえず勉強を始める」というスタートを切れないことがある。それは「勉強ってやっていて意味があるの?」という素朴な疑問からかもしれないし、実はその言葉は勉強を避けたいがための言葉でしかなくて、裏には生活上の悩みがあるのかもしれない。現時点で勉強をする環境ではないという心の叫びなのかもしれない。

そうすると後者のような子どもたちに対しては科学的に正しいとされている行動のみではカバーできなくなってくる。それはぼくの行動が子どもたちの行動を変え、そしてその逆も起こり絶えず相互作用していくからだ。だから、常に正解はないけれど望ましい解は存在する状況がつづく。そうなるといかに場数を踏むかが大切になってくるし、教科書的な発想を拠り所にしながらもどのように外していくか守破離のような考え方も重要だ。

教えるということにフォーカスされがちな塾の仕事だけど、どちらかといえば勉強に対する姿勢をいかにマネジメントするかが成績を大きく左右する。世の中の学習塾がやっていることの多くを、ぼくはブースターとしての役割だと思う。勉強に対する意欲が存在している子どもたちがよりその意欲を増幅させて、学習を繰り返して知識をつけていくような。その社会的な役割は重要だし、ぼくは地域単位で見ても両者の子どもに対応している塾がそれぞれ存在していることが望ましいと思う。

一方で意欲もなにもないところから成績を上げていくこと、いや、まず勉強を始めていくことにぼくは関わっていきたいし、まだまだ途上だと痛切に感じている。

このあたりにぼくが単純に学習塾とホウカゴノガッコウに冠したくない理由が潜んでいるのだと思う。