矛盾をたどる

以前偉そうにこんなことを書いた。ぼくにとっての大人とは何が出来て何をしない人なのか。

内容をかいつまんで話すと、例えいくら憎い人だとしてもその人が言っているからではなくて、その人の言っていることで判断しようということだ。それを、坊主憎くてもその袈裟いいね精神と称した。

この考えは今も変わっていない。今であれば特定の人に好意や不快感を抱くことは、人と人との相性が当然あるものだから仕方ないし、その感情を一旦脇において言っていることを精査するその余裕のことを大人と表現するかもしれない。

興味深い英語のことわざがある。
“A broken clock is right twice a day.”
ー壊れた時計は、1日に2回は正しい、と。

このことわざを援用して、壊れた時計だって1日に2度は合うんだから、考えの合わない人の意見を聞いてもしょうがないよ。なんて意見を耳にした。なるほど、言っていることは理解できるし、この意見はつまるところそりが合わない人の意見をシャットアウトするべきだとも受け取れる。自分の実体験に鑑みても、かなり納得する考えだ。
ただ、この言葉を額面どおり受け取ると意見と人格は切り離すというぼくのこれまでの考えと矛盾する。
意見の良し悪しで判断することが望ましいという、一方でそもそも意見を聞くか否かはその人となりで決めるということだからだ。

こういう一見すると相対する意見に納得するときは、果たして本当に矛盾しているのかと考えを巡らせることになる。その多くは厳密に考えを重ねたところでは矛盾ではないことが多いからだ。それはまるである答えに帰結する数学の問題が与えられたような気がして楽しくなる。

ではどうして矛盾していないのか。
それは両者が予防と対処の意見だからだ。想定しているタイミングが違う。

“A broken clock is right twice a day.”から導き出される意見とはすなわち予防であり、そりの合わない相手と話をする機会を極力避ける、事前策である。一方で、その袈裟いいね精神は、事前策を講じてもなお(自分にとって)broken clockな人と接する場合の対処的な考えだからだ。

ぼくのスタンスにはおそらく数えきれないほどの矛盾を抱えているように映るかもしれない。ただ、紐解いていくと案外共存しうる考えなのかもしれない。