勉強している姿をコンテンツにできないか

努力は排泄と似ていて、毎日すべきものだけど他人に見せるものではない。

学生は毎日勉強という名の努力をしている。ぼく自身も学生時代はそうだった。
勉強嫌いの人からすれば勉強という行動は課せられた義務ゆえに「努力」と映るだろう。世代を問わず、勉強が好きだといえば努力家だね、と言われるし勉強を好きにやっている人からすれば何を言っているのか分からないというのが正直なところだ。

だから勉強に対する認識は平行線をたどるにすぎない。

前者が勉強を義務と捉えるのに対して、後者はおそらく勉強を自らのステータスの向上だと捉える節があるんじゃないだろうか。
ともすれば努力でない勉強は排泄とは呼ばないだろうし、むしろコンテンツとしての側面を見いだせると思う。

人が楽しそうにやっていることはついつい自分もやってしまう。
そんな風に勉強している姿をアーカイブするのもなかなか悪くない。

今までうっすらと考えていたのは、こんなことだ。

人はそれが何であっても成長する(変化する)姿は見ていて飽きない。
なにか動物を飼育することも、植物を育てることも有史以来、私たちの感情を捉えつづけている。

知識を仕入れて理解し整理する。
勉強は苦手で嫌いだと思っていてもそうやって、知識を蓄えていく姿になにか惹かれるものがあるんじゃないかと、いま頭の片隅でずっと考えている。